
1941年10月、ブジェジンカ村に被収容者を補う為に第二強制収容所ビルケナウが開所されました。
ここは各地から送られてくる、より多くのユダヤ人を抹殺するための絶滅収容所として運用されていました。
ピーク時には9万人の人々が収容されていたといいます。
「アンネの日記」のアンネ・フランクが最初に収容されていたのもここビルケナウです。
アンネ一家はユダヤ人として強制収容所に収容されました。
そもそもユダヤ人とはドイツが定義したものであり、祖父や祖母がユダヤ教徒であればユダヤ人とされたそうです。
ドイツのフランクフルトで生まれ、オランダのアルステルダムで育ったアンネは13歳でアウシュビッツに収容されましたがアンネ自身は自分がユダヤ人であるとは思っていなかったそうです。
アンネは2ヶ月後に両親と離れ、姉と共にビルケナウからベルゲン・ベルセン強制収容所に移送されました。
劣悪な環境の中、食料もほとんど与えられず二人とも発疹チフスにかかり亡くなりました。

「死の門」と呼ばれた収容所入り口。
広大な敷地の為、収容所内にまで線路が引き込まれています。
ドラマ「白い巨塔」を思い出される方も多いと思います。
唐沢寿明さん演ずる財前五郎がワルシャワの学会でポーランドを訪れた際に現地駐在員の諒子に連れられアウシュビッツを訪れました。
死が待ち受けるガス室と、労働者として収容所に向かう鉄道の分かれ道で五郎が「どちらに行っても地獄だったというわけか。」というセリフが印象的でした。
少女時代に「アンネの日記」ちょっと大人になってから映画「ライフ・イズ・ビューティフル」、ドラマ「白い巨塔」を観て、生きている間に一度はアウシュビッツに行きたいと思っていました。
そして「白い巨塔」のすごいところと言えばフィクションのドラマとしては世界で初めてアウシュビッツ強制収容所の内部で撮影されたこと。
あのスティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」でさえ撮影許可が取れなかったというのに。
「シンドラーのリスト」ではこの門の外側にセットを組み撮影を行ったそうです。
現地ガイドのアキさんも「白い巨塔」の撮影許可が出た事に関しては不思議でしょうがないとおっしゃっていました。

大勢の人が窓のない家畜用の貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされて連れて来られました。
水も食料も与えられない状況で何日も走っていたために車内で亡くなる人もいました。
「シンドラーのリスト」でオスカー・シンドラーがユダヤ人の乗った貨物車で暑くて苦しんでいる人を見て「水をかけるんだ。」と言って消火栓用のホースを使い先頭になって放水するシーンを思い出します。


そしてこのビルケナウの降車場(ランペ)で死の選別が行われました。
「右へ行け」「左へ行け」
労働力として選ばれたのは到着した人のわずか25%。
残りの75%は降車直後にガス室で殺されました。
ここはもはや殺人工場なのです。
鉄道の引き込み線の終点に「国際慰霊碑」があります。

石碑には「永遠にここは絶望の地であり、ヒューマニティに対する警告である。ナチスはここで、様々な国の主にユダヤ人の男性、女性、そして子ども達を約150万人殺害した」と書いてあります。
このメッセージは犠牲者の国それぞれの言語に翻訳されており20ヶ国分の石碑があります。

広大な敷地は電流が流れる有刺鉄線のフェンスで9つに区切られSS(ナチス親衛隊)と犬が常に巡回しています。
多くの監視塔には機関銃と自動小銃を持った護衛兵が立っていました。

囚人の命は気まぐれに残忍な刑罰を加える事ができる護衛兵によって支配されていたのです。
ビルケナウには300以上の収納小屋(バラック)がありましたが現存しているのは45棟のレンガ造りの小屋と22棟の木造の小屋のみ。



終戦直後、建設資材不足となり収容所の木材が使われほとんどの収容所が取り壊されました。
レンガの煙突のみが残っています。
第一収容所では2階建てのしっかりとした建物で生活していましたがこちらのビルケナウでは沼地に建てられた基礎なしの粗末なバラックでの生活を強いられました。

レンガ造りのベッド。

ひとつのスペースに5〜7人が寝かされていたそうです。
ひどい場所では一番下が土のままの所もあったそうです。
窮屈で不衛生な環境のため、伝染病が急激蔓延しました。
トイレは1日1回、ほんの数秒で済ませます。
冬は−20℃にもなる中で暖房もなく寒さで亡くなる人もいました。
第一強制収容所にはガス室が1ヶ所でしたがビルケナウにはガス室が4ヶ所ありました。
第二、第三ガス室は脱衣場とガス室が地下にあり、死体焼却場は地上に造られました。
第一強制収容所にガス室の模型がありました。

地下にある更衣室とガス室。

1階が焼却場になっています。
地下から焼却場に死体を運ぶのも被収容者(ゾンダーコマンド)の仕事でした。
ナチスはガス室の上の小さな穴からチクロンBという毒ガスを入れるだけでした。
第二ガス室
焼却場の残骸

戦況が悪化してくると、大量虐殺の証拠隠滅の為にナチス軍によって破壊されました。
第三ガス室
脱衣場の跡

爆破されたままの状態で保存されています。
1944年、ソ連軍の急激な進軍に意表を突かれたドイツ軍は、この収容所を取り壊して大量虐殺の証拠を隠そうとしました。
多くの建物、重大な資料や遺品の多くは焼却されました。
私の長年の希望であったアウシュビッツ強制収容所の見学はやっと叶いました。
これはアウシュビッツ強制収容所で購入した本。ありがたい日本語版。

ガイドさんに聞いた話、ガイドブック、ネット記事などを参照してブログに記してきました。
負の遺産ゆえにちょっと掲載をためらうような写真もありましたが、できるだけ読んでくださる方に伝わるようにと思い掲載させていただきました。
気分を害された方もいらっしゃるかもしれません。お詫び申し上げます。
訪問してから2ヶ月経過しているので忘れている事もありますが、記事を投稿した後で、ふと思い出す事もあります。
できるだけ正しくお伝えしたいので間違っている箇所は逐一修正していきたいと思います。
それにしてもアウシュビッツにこれだけの史跡や遺品、資料が残されているとは思いませんでした。
80年も前の出来事ですが鮮明に残る写真の数々には目を奪われました。
被収容者がこっそりナチス軍からフィルムを盗んだような話も聞きました。
これらの写真はナチスが行った大量虐殺の紛れもない事実をそのまま伝えてくれます。
アウシュビッツに行って感じた事は「人間の怖さ」です。
戦争という名の下、人はここまでも残酷になれるんだと思いました。
以前ドキュメンタリーで元ナチス軍の方がインタビューで、ユダヤ人を殺す事に対して罪の意識など何も感じなかったと聞きました。
そして収容されていた人たちも他人の死に慣れっこになってしまう。
自分たちの生活を守るために必要な事。そして人間を人間と思わなくなる。それが戦争というものなのでしょうか。
このような悲しい歴史がありながら今この一瞬にも戦争は行われているのです。
もうやめようよ。
私なんかは人生残りたかだか数十年。
でも子、孫まだそのずっとずっと先まで未来は続きます。
人の心を失ってしまう戦争は二度とあってはいけません。

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